移住者インタビュー
Interview

横本 正樹

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都会の人混みの中で生きていくのは好きではなかった

現在NPO法人かみじまの風の理事長をされ大崎上島の発展に寄与されている横本さん。横本さんは長年大崎上島で何人ものIターンの人たちを支援されておりご自身も生まれは大崎上島だけど育ちは東京というUターンだけどほぼIターンという経歴を持つ。そんな横本さんがなぜ島に戻り農業を営みながらIターンの人たちを支援されるようになったのかを私は興味を持ち聞いてみた。
横本さんは父親の仕事の都合で5歳のとき大崎上島から静岡を経て、物心つく8歳から東京農工大学卒業まで東京で過ごす。島生まれと言ってもほとんど東京育ち。となるとなぜ大崎上島で農業をすることを選んだのか私は少し不思議に思った。都会で育った横本さんが祖父母の住む自身の生まれ故郷の大崎上島でいつから農業をしたいと思ったのか率直に聞いてみた。高校生のころには祖父母のいる大崎上島で農業をやろうと決意した。小学5年生のころから夏休みになると祖父母のいる大崎上島に帰郷し、祖父母の生活を間近で見ていた。大きくなるに連れ将来を考えたとき東京の満員電車や人の多い中で勤めることが自分は好きではなかった。祖父母が年老いていく中で自分が農家の担い手となること決意。母親は猛烈に反対したが決意は固く、大学は農学部を選び卒業後、大崎上島に帰島し農業に従事した。

みかんの大暴落・収入の安定を目指し「未開のブルーベリー栽培へ」

期待と決意を胸に秘め帰島した昭和48年に横本さんの思惑が大きく崩れることになる。戦後始まって以来のみかんの大暴落である。昭和20年代はみかん1箱持って行けば夜の繁華街を遊べたと言われるほど高価な取引がされていたが、昭和30年代から全国的なみかん生産が始まり現在80万トンいわれるみかんの生産量だが昭和48年には350万トンという大豊作の末に値段が大暴落をしてしまったのだ。
横本さんが祖父母のもとへ帰ってきたときに見たのは、祖父母が両手で抱えられるほどの木箱にみかんの皮を剥いた実を一つ一つ入れている姿だった。もうみかんは余って買い手がなく、缶詰工場が皮を剥いたみかんなら引き取ってあげるというのだ。生活できるような収入にはならずみかんを作っても赤字になるような時代に突入したのだった。そこで横本さんは自分の食い扶持くらいは自分で稼がないといけないと思い、税理士の資格を取ろうと勉強に励む中、島の教育委員会から臨時教師の話が舞い込んだのだ。大学時代にいくら農業やるからと言っても取れる資格は取っておきなさいと母親に言われ教員免許を取っていた横本さんは渡りに船とばかりに臨時教師になる。およそ5年の間に6校ほど臨時教師として勤め、その間に本来やりたい農業を今後どうやって盛り返すかを考え一つの考えに至ったという。みかん農家の収入期間は11月~4月までの約半年間しかない中で高値が昔のように付かないみかんで1年分の収入を得るのは今後難しいだろう。では、収入のない5月~10月に収入が見込める物を育てようと考えたのだ。そんなとき、大学で研究していた夏の時期に収穫できるブルーベリーを思い出した。と言っても今でこそホームセンターや苗木屋さんでブルーベリーの苗木を購入することができるが、その時はまだ日本でブルーベリーを栽培している農家はほんの一握りだったが、日本で初めてブルーベリー栽培を行っている人が横本さんの大学時代の東京小平に住む先輩でその先輩に苗木を売ってもらい、初年度300本、翌年には1000本苗木を買い付け、島の8人の仲間で大崎上島ブルーベリー研究会を立ち上げ、栽培を開始し、3年目には実が収穫できた。できた実を農協に持って行くもブルーベリーを知る人がおらず、「なんじゃこりゃ、葡萄よりも小さいし味も大して甘くないし、市場に持って行ってもこれは売れんよ。」と執り成してもらえなかった。落胆して帰路についたが投資額が投資額なだけにこのままでは引き下がれない。仲間3人で電話帳をあさり、広島市内の高級果物店や洋菓子店に持ち込んでみると、これがブルーベリーなのかと聞いたことはあるが見たことはないというそんな時代、誰も買うまでは至らなかった。ここに持ち込んでダメだったら諦めようと決意し、持ち込んだのが今や広島の誰もが知る大手パンメーカー株式会社タカキベーカリーの本通りにある本店「アンデルセン」であった。持ち込んだ瞬間店員さんがビックリしていた。聞くと担当者がブルーベリーを求めて長野に出張していると言うのだ。担当が帰り次第すぐ連絡させますと言われ、3日後担当者と会って食してもらったところ、全て買い取りますと起死回生の取引が成立した。その後も順調にブルーベリーの生産は拡充していく中で、日照時間が長いことが起因となって大崎上島産のブルーベリーに含まれるアントシアニンの含有量が日本一であることがわかり、大崎上島町内でブルーベリーを生産する町民が増加し、生食用だけでなく、ブルーベリージャムの生産や、日本で初めてブルーベリーワインの生産、ヨーグルトブームによりブルーベリーソースがヒット商品となり、大崎上島の大きな産業を生み出すこととなった。

大崎上島は受け入れる風土があり移住を考えるにはぴったりな場所

今ではみかんも作りつつ、価格が安定しているレモンやブルーベリー等の6次産業を進めながら、大崎上島のたくさんの仲間とともに島の発展に熱心な横本さん。ご自身が幼少から島を離れて大人になって戻って来られた経験から大崎上島はなぜ移住希望者がたくさん来られるのか伺うと、「大崎上島は人を受け入れる風土があるよね。それこそ江戸時代から海運業で日本全国の船乗りさんが、風待ちで立ち寄り産業が栄え、明治時代には造船業を中心に栄え日本全国から人が集い、一時は2万人以上の人が暮らしていたんだから商売柄、いろんな人を受け入れるオープンな心を持っている人が多いのかもしれないね。島の人と話をするとすごく親しみやすい人が多いと思う。だからこそ自分を見つめ直す旅先としてよく選ばれる。都会で生きるには心にどこか鎧を纏う必要があるけど島では見栄のような鎧はむしろマイナス。オープンでありのままの自分をさらけ出して楽な状態でも受け入れてくれるのが島の人の良さだと思う。」それこそが島の良さで私も居心地がいいと思う島らしさとだと思った。

農業がおもしろいのはいきなり経営者になること

今現在はブルーベリーとみかんの他に広島が日本一の生産量を誇るレモンの生産もされ様々な農産物を手掛けている横本さんの元には日本だけではなく世界中から色々な方が農業を学びたいと人が訪れる。海外からはウーフという農業短期労働者としてファームステイの受け入れをする仕組みを使って来られた方も含め13年間で200人を超すという。今も祖父の時代から南米ボリビアに移民した川本大介さん(27歳)が来島され農業を学んでいる。またウーフに登録することで横本さんの元に農業を学びたいと日本国内からも人が訪れる。


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